日本ではさまざまな社会的な問題への対応が依然として家族の負担に依存しています。ですから家族的連携の緩みは社会基盤の崩壊の導火線になりかねません。
たとえば同性愛の問題はこれまでの家族制度からの価値観にも影響しかねず非常にデリケートなものです。キリスト教的世界観が支配的なヨーロッパやアメリカでさえ同性愛に関する議論が活発化していることを考えると、私たちもその流れに無関心ではいられないでしょう。
また同性愛とは別にやはり性の差別に苦しんでいる人たちがいます。それは性同一性障害の人たちです。私たちがその苦しみをありったけの善意を持って理解しようと思っても、その痛みの10分の1もわからないというのが偽りのない実感でしょう。
そこでこのような問題をもっと知るために手掛かりになりそうな書物の一部分を紹介します。参考にしてください。無責任ですがこれは引用の引用です。
「...まずトイレに入るのが嫌である。...昔はどうしても女子トイレに入るのが嫌で、顔が青ざめるほど尿意をこらえることが常であった。...それから乳房を憎んだ。どうしてもふくらみがあるとは見られたくなかったので、さらしをぎしぎしと巻いていた。炎天下にさらしを巻いて歩くのは地獄であった。...生理の日には、頭を壁に打ちつけて涙を流してきた。...声変りをしていない声をも憎んだ。...電車の中で人と話をすることが最も恐ろしいことであり、そのため多くの友人を失った...」(伏見憲明著「<性>のミステリー」掲載の「女から男になったワタシ」からの引用文を再引用)
このような性同一性障害者や同性愛者には肉体は必ずしも私たちの考えるセックスの証明書にはならないということを知っておきたいものです。