東大紛争が本格化した昭和43年に私は東大駒場にいました。学内は全学ストに突入し、高校生の青臭さが抜けきらない新米学生にとっては直下火の熱い興奮のるつぼの中に無理やり放り込まれたも同然でした。
私はここで東大紛争を考証したり懐古したりするつもりは毛頭ありません。私が言いたいのはあの日本中の注目を鷲掴みにした東大安田講堂攻防は本当に不可避なものだったのかということです。あれで安田講堂は開放できたのだという直感的な見方に私は今でも納得していません。
機動隊を導入して一直線に危険な攻防に走るよりは兵量攻めの可能性はなかったのでしょうか。1月も中旬になってから機動隊が突入するのではなくて、大学の機能が全面的に休止する年末年始に一週間ほど兵量攻めをして効果を見極める手もあったと思います。元占拠東大生の著作には食糧の備蓄はなかったと記されています。
つまり安易に暴力による解決策を選択するのではなくて、まずは安田講堂の電気ガス水道電話などの供給を遮断すると同時に安田講堂内への出入り口を鉄柵で封鎖して完全孤立させるという選択肢もあったはずです。占拠していた学生はあの寒い中で一週間は耐えられなかったでしょう。
占拠学生や機動隊員にひとりも死者が出なかったのは本当に幸いでした。奇跡でした。とにかくあの危険な総攻撃は天の邪鬼な私にはどうしても大きな疑問として残ります。トップの判断はいたずらに他者の運命を危機にさらしてはならないと思うからです。