このごろではマルマル政党は変わったのだと政治家は流行語のように繰り返します。そういう政治家の発言はいつもああしますこうしますという先々のことがほとんどです。ここでコロリと騙されてはいけません。
政党が変わったことを強調したいのは変わらざるを得ない都合があったわけです。ではその都合の原因は変わることで水に流して終わりなのでしょうか。
たとえば悪人も都合が悪くて善人に変身するといえば、それまでやりたい放題だった数々の悪行は水に流してもらえるのでしょうか。
そんなことが度々はあってはたまりません。もしそんなことがいつも許されるとしたら責任などという言葉は居場所がなくなってしまいます。
私たちは政治家が後援者の前で土下座している姿を見たことがあるでしょう。あの土下座は謝っているわけではなく、ただグループの結束を強めて票が流れないように必死にすがるジェスチャーです。
また私たちは自分とは無関係な場合でも不幸なことがあるとゴメンナサイをします。関係者の一員として非難の渦に巻き込まれたくないからです。あくまでもこれまで通りの社会の一員であろうとしているのです。
ゴメンナサイや土下座についてこれらの脈絡から考えてみると、私たちは心に住み着いている集団意識がどうしてもぬぐいきれないようです。だからそうされた側の者までも謝る相手と同じ物語のなかに引き込まれてついついコロリと騙され過去のことをすっかり忘れてしまいます。
こう考えてみると変わったと喧伝し先のことしか言わない政党にどうも不信感が募ります。この変身はウルトラマンのようにいつもうまくいくとは限らないから心配でもあるのです。