日本では大学に対して行政側による色々と細かい規制が設けられています。大学を新設する場合には気が遠くなりそうな書類の山を作って提出しなければなりません。学部や学科を新設したり変更を加えたい場合も同じです。
この規制の画一的な典型例が運動場です。都心に位置する大学でも運動場は要らないなどとは言ってもらえません。都心の敷地内が無理ならば郊外に持たねばなりません。こうした規制は施設や教員が一応は整った水準にあるというお墨付きとはいえないまでも安心感を与えているのは否めません。
しかし大学が高等教育機関として十分に機能しているかどうかとは別問題であり、そのあたりの検証のために大学評価の第三者機関独立行政法人大学評価学位授与機構が設立(平成16年4月)されていて、外部評価を有料で実施しています。
この機構の目的のひとつが教育研究活動等の総合的な状況に関する評価であり機能面からの検証であることはその言葉からも明らかです。この評価には書面調査だけではなくて調査委員のキャンパス訪問もありますから、その時には学内は異様なほどの緊張感が漂います。
この外部評価は聞こえはいいのですが明らかに一つの新しい規制であり、大学の経営コスト増を招いたり、過度な教育への縛りの温床になる危険性をはらんでいます。特に私がアメリカの大学の理事を務めていた経験をもとに考えますと、日本的な官僚統治の巧みな隠れ蓑になっているように思われてなりません。
日本の大学では入学したら後は大学の人質になったも同然で転学どころか転部さえ難しい現実があります。入学時の当てが外れて大学に大きな不満があっても別の大学に行くことはできません。その上にどんなに立派な外部評価がなされても、学生はその結果を見て行動する道がないのではまったく意味がないはずです。
外部評価というものはアメリカやヨーロッパの大学のように学生が転学できる自由を持って初めて生きてきます。大学が恐れる対象が評価機構という名目的なものではなくなって学生自体に移るからです。つまりどんなに立派な外部評価にも勝るのが学生が転学の自由を持つことなのです。
日本の大学が世界基準の高等教育機関に生まれ変わるためには絶対に欠かせない教育改革の原点がここにあります。