小室圭さんをシッタベンレイ

ノーと言って金満世界を変えよう

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2013年10月8日火曜日

居場所を求めて

 子どもたちには居場所が必要です。この居場所とは自分が自分らしくしていられて他者との関係も心地よく、自分の存在感をはっきり確認できるところというくらいの意味でしょうか。ですから単に物理的な空間というだけではなくて、情緒的かつ社会的な空間でもあります。


 自分の居場所を孤立の世界に求める人たちがいます。保護者が口うるさくて学校化した家庭では自室に閉じ込もるのがもっとも手っ取り早い方法ですが、これでは単に他者との物理的な関係を遮断したにすぎません。こうした孤立の世界に逃げ込んで家族や他人や社会を無化しようとしても、結局はいろいろな不安や葛藤から逃れることはできません。


 引きこもりと対極にあるのが修行僧の姿勢です。修行僧は隠れてひとりになろうとはしません。修行はあらゆる雑念を脳ミソから追い出していつでも自分を無化できるようになるまで続きます。なぜこの発想が大切なのかは俗物の私にはよく分かりませんが、おそらく他者の心を自然に率直に受け入れるためには自己の欲望が先立ってはならないという経験的な知恵から来ているのでしょう。


 今日学校では教師に対して厳しい管理態勢が敷かれて成果主義が取られています。本来ならば学校は子どもたちの成長を優しく見守るユルイ場所であるべきですが、教師は子どもたちの取り締まりの手綱を逆に強めようとしています。そこで子どもたちは賢く暴力的な反抗を諦めていわゆる無視という態度で応酬してきます。その行き着くところが学級崩壊や学校崩壊です。教育の成果主義が学校教育の崩壊を招くという皮肉な結果になっています。


 結局は家庭でも学校でも居場所のなくなった子どもたちは気の合った友達だけで居心地の良い疑似空間を作って生きていく方法を選択します。そこは非常に閉鎖的で社会性がありませんからいじめの温床にもなります。現代社会にはびこる無関心にもこうした背景が絡んでいるのではないでしょうか。誰もがどこかに居場所のある社会であってほしいものです。