とても乱暴で下品な表題ですが許して下さい。体罰を容認する人たちにはこのくらいの表現を使わないと分かってもらえないと考えました。ひょっとするとこの表題は言葉の暴力だと批判されるかもしれません。
独善的な体罰容認派の人たちには、長い人類の進化の過程においてなぜ戦争や暴力が否定されるようになってきたのかを考えてみてもらいたいのです。それは私たちには人類だけが獲得した崇高な宝『言葉のちから』があるからです。
特に教育現場において体罰を容認する人たちは『言葉のちから』を半ば放棄して、その蛮行を教育者としての無知無能から次世代に伝搬させている、という恥ずべき事実を認識してもらいたいものです。
短い人生において私たちの性急な思いを暴力に頼ってでも実現しようなどというのは極めて短絡的で驕り以外の何物でもありません。
ひょっとすると暴力の快感は薬物などと同じように依存症をもたらすのかもしれません。そうでなければこれほどまでに体罰の連鎖が教育現場で続くものなのでしょうか。