私たちは何歳のころから『わからない』ということばを発するようになるのでしょうか。子どもたちを教えていて気付いたのがこの疑問です。
ある時までは『教えて』はあっても『わからない』ということばは発せられないのではないかと長い教育上の経験から思うようになりました。子どもの発達においては普通は『教えて』が『わからない』に先立つのではないかと考えるのです。
『わからない』というのは案外恐ろしい意味合いがありそうです。自分にはわからないことがある、自分の理解できないところ(世界)がある。そんなこっちとあっちの境界を意識した戸惑いのようなものが私には感じられて仕方がありません。
一方で『教えて』というのは分からない世界に積極的に入っていこうというある種の純粋な気持ちを感じさせます。『わからない』という子どもの複雑な気持の背後についておとなはもっと敏感に感じ取るべきことがあるような気がしてなりません。
まずは『教えて』が多い乳児期から『わからない』が多くなる幼児期までの間隔が長ければ長いほど子どもの純真な心の根付きの良さを表しているように思うのですが、今後の検証に期待します。