小室圭さんをシッタベンレイ

ノーと言って金満世界を変えよう

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2014年10月29日水曜日

今日の道徳教育の怖さ

 今日の日本の道徳教育は戦前の教育勅語の焼き直しのような内容のもので、とても現代社会に相応しいとは言えません。


 もとより教育勅語は明治時代から敗戦時まで国民の道徳規範の根源でした。天皇制を絶対視する皇国史観の鋳型から鋳造され、社会変革を許さない発展性のない強直した価値観が国民に強制されました。人間の尊厳は完全に無視されて個人は普通名詞化され、国民は臣民としてひとくくりにされて語られるしかありませんでした。


 当時の教育にスッポリと欠落していたのが人権教育でした。人権を認めるということは国民ひとりひとりが名前のある固有名詞で語られることを意味します。具体的な例で言えば、私は愛日長アマガエルであり、私なりの固有の価値観を持った人間としてアイデンティティを認められねばならないということです。


 このような視点が尊重されて個人がそれぞれに幸せになるためには、個人と社会と国家との間に存在する矛盾が調整される余地が準備されていなければならず、それは取りも直さず国家が社会の変革に寛容であるということが絶対条件です。


 こうした論理を理解する最も重要なキーワードが人権であり、私たちが認識すべきは人権の重要性です。戦前教育の最大の過ちは人権無視の社会で道徳ばかりがもてはやされたことと言えるでしょう。戦後教育は同じ過ちを再び繰り返していないでしょうか。教育者は意識的に人権教育を避けていないか胸に手を当てて考えてみてください。