小室圭さんをシッタベンレイ

ノーと言って金満世界を変えよう

  とうとうコーツIOC副委員長が来日して、これからはオリンピック開催への直接的圧力が強まりそうな気配です。  東京オリンピックが多数の病人も出そうな真夏に開催されるのはビジネスとしての都合からで巨額の放映権料を稼ぐためでもあります。  そんな開催してもお金、中止してもお金の五輪...

2013年2月2日土曜日

就活対策⑧ ディベートに役立つ価値観の多面的な検証 

 ひとつの事象をある特定のシチュエイションでしか捉えていないとグループディスカッションでは賛否両論が渦巻いてしまい収拾がつかないことがよくあります。

 たとえば数十名の若者集団に『車内でお化粧する女性』というテーマで話し合ってもらうとします。おそらく男性の場合は否定的な意見に傾くでしょうが、女性の場合にはあまりたいしたことではないという雰囲気で収まるでしょう。

 私は化粧する女性を車内で目撃すると少し気になることは否めませんが、どうしても自宅で時間が取れなかったのなら仕方がないと考える方です。ですから積極的な否定論者ではありません。

 さてここで考えてみるに、車内でまったく見も知らぬ他人というシチュエイションのもとでは私は否定論者ではありませんが、一緒に外出した家内がいきなり車内でお化粧を始めたら面喰ってしまうでしょう。そしてすっかり家内に幻滅を感じることになるでしょう。

 このような議論のテーマに関するシチュエイションの転換は価値観の検証に大いに役立ちます。ですから私たちがグループディスカッションにおいてデッドロックにぶち当たったら、その事象のシチュエイションをいろいろと転換して話し合ってみると議論が進みやすくなります。

日本の上水道の浄水技術は世界一か?

 日本では下水処理場からの放流水が流れ込んでいる河川のすぐ下流で上水道の取水が行われることは稀なことではありません。

 これは日本の浄水技術が世界一であるからそれでも安心して水道水が飲めるのだと考えがちです。また例えばフランスであまり水道水を飲まないのは水が悪いせいであるなどとかなり誤った考えでフランス人の習慣を解釈しがちです。

 私は40年以上前にパリに長く住んでいましたが貧乏生活でしたからペットボトルの水など買ったことはありませんでした。特に不都合な健康障害に見舞われたことは一度もありません。当時のパリの水は塩素臭などとは全く無縁でしたし、それは今日でも変わっていないはずです。ただ多くのフランス人が当時からペットボトルの水を買っていたのは間違いではありません。

 私はパリに移り住む前にはドイツにも長くいましたが、当時はフランス人が高いペットボトルの水を買っていることをドイツ人は皮肉っぽく評していたものです。またロンドンにも長く住んでいましたがやはり水道水は飲んでもまったく問題はありませんでしたし、下宿先のおばさんがペットボトルの水を買っていたような記憶はありません。

 こんなわけで日本の水道水の品質は世界一だといわれるとなんとなく嬉しくなりそう思い込んでしまいがちですが、私たちの脳ミソに巣食っているこの常識を疑ってみるのにいい書物をここで紹介いたします。

 それは古い書物ですが鯖田豊之著『水道の文化ー西欧と日本ー』です。水道の話だけではなくて自然と人間の共生について大切な考え方を示唆してくれる名著です。こんな書物を書ける学者に声をかけた新潮社はえらい!

 この本を十分に理解するためには、今日の最新技術の粋を全て盛り込んだ『急速濾過』という浄水技術は薬品漬の悪循環に陥る危険性が大きく、19世紀初頭にイギリスで開発された『緩速濾過』という超レトロな浄水法には水質の良さとおいしさと低コストの面でとてもかなわないということ、そして緩速濾過法を維持するためには水源地の自然保護が不可欠であることをまず知っていないと、全く反対の解釈をしてしまいます。ご注意ください。

厚顔無恥 見苦しい人たち

 私は怒っています。

 スポーツの世界で超一流の実績を残した人たちの一部がこれまでの日本のスポーツの歪んでいた部分を『知らなかった』とも言いたげに暴力事件にコメントしているのをみると腹立たしいこと極まりありません。そういう人は手にした自己の立場と権力を保持するために今日に至っても知らなかったと強弁するのでしょうか。

 私はおよそ40年にわたって微力ながら大学スポーツに関わってきました。私が携わり始めたころは暴力制裁をたびたび目撃しました。私はスポーツ界ましてや大学スポーツ界のことはそれまでまったく知りませんでしたから、その頃のことを思い出すと今でも胸が苦しくなってきます。

 暴力はやめてもらいたいと訴えても、それが常識の世界で育ってきた人たちには私の発言は昔はノミの糞にもなりませんでした。彼らが悪意を持って選手に接していたとは決して思いませんが、私が着任した頃はスポーツ界の『誤った常識』を無批判に宗教的教義のごとく妄信していたからだと思います。

 しかし今日では暴力はなくなりました。先輩後輩の関係もなくなりつつあります。そして選手が大学スポーツをきっかけにして成長をしてくれているのを見ると嬉しくてたまりません。

 スポーツ界が至る所でこうした暴力問題を抱えていたとは考えにくく、非常に限られたところでひとつの伝統として継承されてきたものでしょう。今回の状況はこれまでとは違い何かが代わりそうな気配です。日本のスポーツ界を背負う政界や各種協会などの重鎮はこの絶好の機会を逃さず、渾身の勇気と潔さをもって暴力問題と対峙してください。

2013年2月1日金曜日

就活対策⑦ 日本は資源に乏しい国 この常識は本当か?

 日本は資源に乏しい国だから国民は勤勉に働かなければならない。こんなことを政治家も一般国民も分かったように言ったりします。しかしこれは本当でしょうか。さあ、また頭の体操です!

 物事は無いと思えば無いものしか考えられず、有ると思えば有るものしか考えられません。無いと思いながら有るものが思い浮かぶなどということは人間の脳ミソではなかなかできない芸当です。

 だから無いという話のときには無いものだけではなく有るものも意識して考えてみる習慣を身につけないと、ころりと誤った常識に騙されてしまいかねません。これがヒントです。



  それでは私なりに謎解きをします。
 人間は無いものを意識し過ぎるとどんどんと消極的になり社会を見る目までが否定的になります。資源の乏しい国などと子どものころから刷り込まれてしまうと何だか被害妄想に駆られた人間のようになりかねません。例えば日本が第二次世界大戦に及んだのもこの被害妄想的な意識が関係したのではないかと思っております。

 また他人を見る場合にも、相手の悪いところに目がいくと、それが知らず知らずのうちに自分の脳ミソのなかで膨らんできて相手と協調関係を築けず、結局は不幸な結果になりやすいものです。

 なるべく意識して相手の長所に目を向け、その長所の延長線上でお互いの関係が成り立つように努力すると厭だと思う人間関係でも光明が差し込んでくるものです。見えるものなら短所よりも長所のほうに視界を方向転換した方が賢明ではないでしょうか。

 では日本は例えば地下資源に乏しいのでしょうか。はい、確かにほとんどすべての地下資源を輸入に頼っている日本は地下資源に乏しい国です。

 しかしです。地下資源の豊かな国は世界中190数カ国のうちでどのくらいあるのでしょうか。そんな国は5カ国もないことに気が付かれることでしょう。すると日本は特別に地下資源が乏しいわけではなく普通に無いだけなのがわかります。

 なーんだ日本は地下資源ではいわば極貧国かと思っていたのに普通なんだ。少しは気が楽になりましたか。

アマガエルは生き残った。なぜか?

 とうとうアマガエルの登場です。この謎は『墓場のネコ』よりはいくぶん高級です。

 なぜアマガエルは田んぼでは絶滅して、周りは田んぼしかない孤立した人の住まない民家にしか生き残れなかったのか。それはそこが一番安全で生存に適していたからです。この種の謎解きでこう考えるのは定石通りで当然ですね。

 ではなぜそこが一番安全であったかということです。ヒントは田んぼです。




  日本の田んぼではコメの収穫率を高めるためにたくさんの農薬を散布いたします。農薬は当然のことながらアマガエルには猛毒であり、農薬を浴びたのでは生き延びる手立てはありません。だから田んぼにはアマガエルは生存できません。

 農薬散布のない民家の敷地だけがアマガエルには逃げ場だったのです。特にその一軒家は長年放棄され雑草が生い茂っていて沢山の虫が生息しています。アマガエルは生きた餌を苦もなく見付けることができます。

 農薬がないから虫が増える、虫が増えればアマガエルは増える。そんなわけで民家の敷地に足を踏み入れた瞬間にバッタの大群のようにアマガエルが一斉にジャンプします。可愛いですよ!

 ついでですが少し高級な話をしますとアマガエルは両生類に属しています。両生類は皮膚吸収の高い能力がありますから、浴びた農薬を体内に取り込みやすいのです。田んぼであまりカエルがケロケロ鳴かなくなったのも農薬のせいです。

 ところで農薬に蹴散らされて行き場を失ったアマガエルと人の住まない民家の出会いは偶然の結果なのでしょうか。こういういわば物言わぬ弱いものがどこかに追いやられていく社会は本当に豊かなのでしょうか。もうちょっと深く考えてみましょう。

 私たちがバブル崩壊以来の長い停滞のなかから抜け出せないのは、ひょっとすると私たちが苦労して獲得した富の使い方を誤ってきたからではないでしょうか。だから今日の社会を誰もが本当は信頼できず、いつか自分がアマガエル的立場に追いやられはしないかとみんな不安に駆られているのです。だから最後の頼みであるお金を握りしめて使いたくないのでしょう。

 このようにアマガエルさんは色々な意味での安全な生活環境のバロメーター的存在でもあります。そして私がなぜブログ名をアマガエルにしたか、これで少しはご理解いただけたでしょう。このブログが続いて自然環境がこれ以上破壊されないことそして社会がひとりひとりの構成員にとっていつかは安寧の場所になることを願っています。

第六感を信じよう!

 先日用事もないのに急に半年ぶりに友人に電話をしました。彼はたまたま私の近くに来ていて連絡を入れていないのに偶然に電話がかかってきて仰天していました。

 私はこんな経験をたびたびします。何かひどく気にかかる人があるとその人から突然電話が入ったり、特別なことが起きていたことを知って驚かされることがあります。

 我が家のネコは足音(らしい)で人物判断します。来客があって急に二階に駆け上がって怯えたように姿を隠すことがあります。後で考えるとなるほどお近づきになりたくなかったのだとその人物判断の正確さに納得します。

 このようないわゆる第六感めいたものは科学的には説明できませんが、科学ではまだまだ分からないことがあっても不思議ではないでしょう。

ロダンの彫刻『美しかりしオーミエール』を見てみよう

 ロダンの彫刻作品は上野の国立西洋美術館に『地獄の門』、『考える人』、『カレーの市民』、『アダム』、『イヴ』などが常時展示されていてまさに圧巻のひとことです。

 私はこれらの作品も大好きですが、もっとも興味をそそられるのは『美しかりしオーミエール』という作品です。残念ながら実物を目にしたことはありません。

 私たちは彫刻作品といえば美しい肉体をモチーフにしたものを想像しがちです。しかし、この『美しかりしオーミエール』は『美しかりし兜屋の妻』などとも言われますが、すっかり衰えたお年寄りの女性の肉体をモデルにしています。

 衰えて垂れ下がった乳房、フレンチブルドッグの顔のように皺がれた太鼓腹、働き者だったらしいことを思わせる骨太の骨格を強調した高さ50cmほどのブロンズ像です。

 私は絵を描いたり彫刻を製作したりするのは美を表現するためと考えていました。ところが『美しかりしオーミエール』を発見して、芸術とはどうもそんな薄っぺらなものであってはならないと思うようになりました。

 ロダンこそはいわゆる美の追求に埋没することなく生命の尊厳を彫刻の世界で求め続けていた希有な存在だったのでしょう。彼の作品は人間の生命への崇高な讃歌です。